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いい蕎麦・いい湯・いい信州編1(2002年10月19日〜20日)

 

 久しぶりの中部地方へ行ってきました。今回は、JASのウルトラ割引の期間ということで、一度飛んでみたかった、大阪〜松本間を利用してみることにしました。でも・・・、土曜日の出発便はウルトラ割引の設定座席数が多かった様でとれたのですが、復路は満席。普通運賃の場合だと、十分に空きがあるようですが、座席数限定のウルトラ割引は売り切れになっていました。
 他の路線を見たところ、やはり土曜日は空きがあるものの、日曜日はウルトラ割引が売り切れになっているところが多い様で、なんだかJASの戦略にはまっている様な感じでした。だって、往路を取ったら、復路も必要なわけでして、その復路が高くても利用しないといけないですからねぇ。なんだかなぁと思いつつも、普通運賃は高いので、高速バスで復路は帰ってくることにしました。
 つまり、伊丹空港10時15分に出発し、翌日の16時出発の高速バスで大阪に戻るというルートです。高速バスは時間がかかりますが、お値段はウルトラ割引の飛行機よりも安いわけですから、利用方法によっては随分リーズナブルです。
 そんなわけで、当日はMD−87で長野県松本空港へ飛んだのでした。ちなみに、搭乗ゲートは24番と、一番端の搭乗ゲート。どうも最近、こちらのゲートを利用する機会が増えている様な・・・。あまり大きな飛行機の飛ぶところに行かないってわけですね。

 10時15分のフライトですから、ゆっくりとしています。それに朝の伊丹空港の出発ラッシュが済んだ後というわけで、チェックインカウンターもガランとしていて、いつもの朝の喧騒とは随分と違います。JALと経営統合してから始めての利用というわけで、空港がどんな風に変わっているか少し楽しみでした。といっても、JALもJASもまた別会社としてありますから、カウンターの上に、新JALグループのロゴがあるのと、共通自動チェックイン機がある以外に大きな変わりはありません。面白いのは、JALのカウンターには、従来のJALのロゴと、新JALグループのロゴの2つが掲げられていることです。どうやら、新ロゴは、グループロゴであり、日本航空単体のロゴは従来のままだった様です。
 あと、共通自動チェックイン機もJALカウンター側とJASカウンター側の双方にかなりの数が設置されていました。どちらでもチェックインができる様になっているのですが、手荷物カウンターは別ですから、やはりJASに搭乗する場合は、JASのカウンターに近いチェックインを利用する方が便利そうでした。
 そういえば、自動チェックイン機から出てきた搭乗券ですが、きちんと、JALとJASの両方の名前が入った台紙で出てきましたので、これは、もしかすると貴重な品になるかもしれないと思ったりしました。数年後には、JALジャパン(この名前はなんとかならんものかと思うんですが・・・)とJALインターナショナルに再編する予定ですから、その場合はJALの台紙になってしまいますからねぇ。JASの名前が果たしていつまで使われるのか気になるところです。

 ガラガラの手荷物検査場を抜けて、搭乗待合場も空いています。なんだか、これがいつもの伊丹空港なのかと思ったりします。なんでも、伊丹空港は羽田空港と違って、朝・夕のラッシュをのぞくと、空いていると聞いたことがありますので、それがこういうことなのかと、改めて認識しました。
 で、一日一往復しかない松本便ですが、搭乗客数はなかなかでして、満席で出発となりました。130人前後しか乗れない機材ですから、満席といっても知れている状態ではありますが、出雲便の半分ぐらいしか埋まらないのと比べると、やはり盛況といえる様な気がします。
 しかし、松本までは距離が短いので、機内サービスは省略されています。しかし、飴などについては、搭乗時に欲しい方のみ撮ってもらえる様に客室乗務員の方がカゴで、手に持っておられました。

 11時ころに松本空港に到着。到着してみて、さらに驚き・・・「かなり小さい・・・」。空港ターミナルが、本当に小さくて搭乗ゲートも一つしか無いようです。そんなわけで、ターミナルビルも他の地方空港の半分・・・いや、1/3といったぐらいでした。というのも、この松本空港。首都圏からは近すぎますので、羽田便か無いということが、ポイントの様に思います。現在就航しているのは、大阪便、福岡便、札幌便の3路線の様ですから、もしかする一番旅客数が多いのが大阪便なのかもしれません。そんなわけで、首都圏を結ぶことが出来ないということの不利が見えた様な気がしました。大阪では、力が無さすぎるんですよね。

 そこから、11時20分のバスでJR松本駅へ向かいました。レンタカーは松本駅前のトヨタレンタカーで15時30分貸し出しで予約していますから、それまでの時間つぶしをどうしようかと、松本駅あたりで考えることにしました。バスは、松本バスターミナルに11時50分ころに到着。ここから、駅まで徒歩5分と案内がありましたが、実際はほとんど隣ですので、3分程度の様です。確かに改札まで行くと、5分ぐらいかな?あまり、サバを読んでいないところは好感が持てます。

 駅に到着して色々と考えた結果、JRに乗るのでは無く、せっかくなので、松本電気鉄道を利用してみようと思い、松本電鉄沿線に施設が無いものかと考えることにしました。松本電鉄というと、上高地へのメインアクセスルートですので、それに合わせたダイヤが組まれている様ですが、それ以外に関しては、全くといっていいほど力が入っていません。駅にあるパンフレットなどを見て、最終的に決定した行き先が、松本歴史の里というところで、そこにある司法博物館を見学してみようと考えました。
 電車は12時10分発でしたので、時間的にも10分少々とタイミングはバッチシです。信州といえば、そばということで、駅そばが気になったのですが、電車の発車までの時間を考えると、食べている時間が無いなぁということで、後でそばを食べることにして、電車ま待つことにしました。ちなみに、松本電鉄の松本駅はJRと共有しており、JRの改札口を入り一番端の7番線がその乗り場になります。向かい側の6番線はJRの大糸線となっており、清算や切符の購入をせずにそのままJRに乗り継ぐことが出来る便利さがあります。
 向かい側に停車している大糸線の列車の2両目の運転席側の扉のところに大きな幕が貼ってあり、「荷物室として利用させていただいております」と書かれてあったのには少し驚きでした。
 松本歴史の里へは、松本駅から4駅先の大庭駅が最寄り駅ということで、しばしの松本電鉄の旅を楽しむことにしました。松本電鉄というと、上高地へのアクセス鉄道として有名で、終点の新島々からバスで向かうというのが、王道のルートとなっています。故に、車内を見渡しても、あきらかに上高地へ山上りに行きそうな雰囲気の方が多く、ちょうど時期も紅葉の時期ということもあってか、そこそこの乗車率でした。

 

 大庭駅まで運賃170円。下車してみると、驚きの駅舎が目の前に!というか、これだけ古めかしい駅舎があったのかと思う次第ですが、この間までは委託ではあったものの駅員が所在していたそうです。確かに下車客が何人かいた為、それなりに利用者のいる駅だったのだと思います。
 しかし、現在は無人駅ということで、なんとも寂しい雰囲気が漂っています。というか、本当に最近まで有人駅だったのかと思ってしまう駅舎に驚きです。改札口という看板が右から左に書かれているというのも、時代を感じるというか、よくもここまでもっていたものだと驚くばかりです。

 歴史の里までの道筋は、駅舎に手書きの紙が貼られており、それに沿って向かうことにしました。駅前もひっそりとしており、中小私鉄の駅前というのは、これぐらいのものなのかなぁと思います。住宅街を抜けて、長野自動車道をくぐって、大きな道に出ると看板がありました。徒歩20分程度ということですので、さほど遠くはありません。ただ、空を見上げると、どんよりとした雲が、雨の心配をさせてくれます。

 松本歴史の里には、「日本司法博物館」「ああ野麦峠 山本茂實記念館」「工女宿宝来屋・座操製糸工場」「少年刑務所独房」「木下尚江記念館」があり、入館料金は全て合わせて530円でした。メインが日本司法博物館で、道路にある案内板には「市民が作った!」と書かれてありました。いったいどういうことなのか不思議に思いながら、中に入ってみることにしました。
 まず、最初が日本司法博物館になり、こちらの瓦葺きのしっかりとした大きな建物が印象的です。なんでも、松本区裁判所を移築したものだそうで、その移築に関して、かなりの市民運動が起こったそうです。その関係で、「市民が作った!」と書かれていたのだと思います。

 中に入って、順路通りに進みます。一つ目の部屋は捕り物コレクションということで、十手などが置いてあり、江戸時代の司法制度についての説明が貼られてありました。岡っ引は、ポケットマネーで雇われた情報集めの町人であるというのは、なかなか知る機会の無い貴重な説明だと思いました。次に入った部屋は一揆の部屋だったのですが、たしかに説明があるものの、あまり詳しい説明はなく、一揆が起こった背後関係なんかが説明されていれば、良いのになぁと思いながら、一揆の様子を再現したミニチュア人形を見ておりました。
 次に、メインとも言える区裁判所の大法廷の部屋。こちらは、明治時代の法廷をそのまま再現しているそうで、裁判長などの人形なども置いてあります。説明で強調されていたのが、明治時代の法廷は、検察官が裁判長と同じ高さにおり、被告をを見下ろすという位置であったということでした。ちなみに、弁護士という制度についても、明治時代も中期以後に認められたそうです。
 ここまで、他にお客さんはいない様で、かなりマイナーな施設なのかなぁなんて思いながら、見ているのですので、基本的に説明がタイトで展示物に重きを置いている様な感じがします。

 

 次の部屋に入ると、どういうわけかシベリア抑留に関する部屋になり、こちらで、シベリア抑留に関する資料が多数展示されていました。司法とは直接関係が無いので、なぜ?と思ったのですが、シベリア抑留に関しては、4〜5年前に訪れた舞鶴引揚記念館で前後関係がわかっていた為、大変興味深く見学することができました。この部屋だけで20分ばかり見学していたと思います。この間に、団体さんが訪れた様ですが、法廷を見られた後、こちらのシベリア抑留の部屋は見学せずに去っていかれました。

 次に近代の司法について説明のある部屋だったのですが、やはりあまり説明文が無い為に、展示物を見て回るだけといった感じです。このあたりが、何もわかっていない私にとっては、もう一つだなぁと思えたのですが、一つ目を引いたのが、「素盞鳴尊」の絵が掲げられていました。日本における司法のはじまりは、素盞鳴尊が高天原を追放された古事記にはじまり、この当時から合議制であったとかかれてありました。ちょうど、口語訳古事記を読んでいるところでしたので、特に目がそこに行ったのだと思います。

 意外に、この施設は大きくて、次に昭和天皇の資料が展示されている部屋、戦中のスパイの部屋、などがつづき(このあたりはあまり興味がなかったのかなり、読みとばした感じなのですが、資料そのものは有名らしく、カメラマンが付いている見学者の方や、館長が挨拶に来る様な有名な方がいらっしゃった様です)、小法廷の間に続きます。この小法廷は、戦後の法廷を説明している様でしたが、机の配置は検察官が裁判長の横であることから、大法廷と同じ形になっている様でした。
 壁面には、司法制度の戦前・戦後の違いや区検察の説明などが詳しく書かれてあったので、なかなか良い読み物がそろっており、興味深く見学することができました。

 

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